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大阪地方裁判所 昭和38年(ヨ)2465号 判決

申請人 川原啓男 外六名

被申請人 石田英男

主文

被申請人は、申請人らを友愛会病院の従業員として取扱い、かつ昭和三八年八月一日以降申請人川原啓男に対し一ヶ月金二九、八六八円、申請人月岡静子に対し一ヶ月金一八、三六一円、申請人久田弘子に対し一ヶ月金一八、五〇〇円、申請人弓田藤司に対し一ヶ月金二六、八一九円、申請人大西政男に対し一ヶ月金二一、一三〇円、申請人松田絹代に対し一ヶ月金一七、〇〇〇円、申請人岩川明子に対し一ヶ月金一七、四一六円の各割合による金員を毎月二五日限り支払え。

申請人岩川明子のその余の申請を却下する。

申請費用は被申請人の負担とする。

(注、無保証)

事実

第一、当事者の求める裁判

申請人川原啓男、同月岡静子、同久田弘子、同弓田藤司、同大西政男、同松田絹代については主文第一、三項と同旨、申請人岩川明子については、「被申請人は、申請人岩川明子を被申請人の従業員として取扱い、かつ昭和三八年八月一日以降一ヶ月金一七、七五〇円の割合による金員を毎月二五日限り支払え。申請費用は被申請人の負担とする。」との判決を求め、被申請人は、「申請人らの申請を棄却する。訴訟費用は申請人らの負担とする。」との判決を求めた。

第二、申請人らの主張

(一)  被申請人は、大阪市住吉区浜中二の一五番地所在友愛会病院の開設者であつて、現在同病院の院長である。

右友愛会病院は、従来高砂病院と称し申請外松永栄が院長をしていたが、昭和三八年七月二二日高砂病院が廃止されると同時に、翌二三日その業務内容をそのまま引継いで開設されたもので、内科、外科、皮膚科、レントゲン科、産婦人科を有し、従業員数約四〇名である。

申請人らは、いづれも高砂病院時代に同病院に採用され、昭和三八年七月友愛会病院開設の当時申請人川原は衛生検査技師の職にあつて一ヶ月金二九、八六八円、同じく同月岡は事務員として一ヶ月金一八、三六一円、同じく同久田は栄養士として一ヶ月金一八、五〇〇円、同じく同弓田は調理師として一ヶ月金二六、八一九円、同じく同大西は雑役夫として一ヶ月金二一、一三〇円、同じく同松田は事務員として一ヶ月金一七、〇〇〇円、同じく同岩川は看護婦として一ヶ月金一七、七五〇円の各割合による平均賃金を得ていたもので、かつ全員が高砂病院の従業員で構成する高砂病院労働組合の組合員である。

(二)  高砂病院は、昭和三七年一二月頃理事会において、院長である松永栄の辞任と新病院開設の方針を決定し、右方針に基いて昭和三八年五月頃松永栄は実質的に院長職を離れ、その後しばらく被申請人が院長代理をしていたが、同年七月申請外刈田陸郎を代表理事とする新理事会との間で、債権債務の引継ぎ等、新病院発足に関する取決めがなされた。

右の経過により同月二二日高砂病院が廃止され、翌二三日友愛会病院が開設されたが、新病院の開設後被申請人は、「従来の高砂病院労働組合は共産党の指導のもとに病院をつぶそうとしているから認めるわけにいかない、特に申請人川原、同月岡、同弓田、同久田の四名は破壊分子であるから、新病院には採用できない」とし、又申請人大西、同松田、同岩川の三名については被申請人が前記申請人川原ら四名を除く爾余の従業員に高砂病院宛の退職届の提出を強要し、退職届を提出したものに限り、直ちに友愛会病院に採用するという方法をとつたのに対し、同申請人らが最後まで高砂病院労働組合に残り右退職届を提出しなかつたことにより、申請人ら七名はいづれも友愛会病院の従業員ではないとして、申請人らの就労を拒み昭和三八年八月以降の賃金を支払わない。

(三)  しかし右友愛会病院は、単こ院長や病院の名称が変つたというだけで、高砂病院との同一性を持続しており、従つて従業員の地位に何ら変動はないというべく、申請人らは友愛会病院の従業員としての地位を有する。

高砂病院は、昭和三〇年五月頃松永栄の個人名義で開設されたが、その開設にあたつては、大阪民主医療機関連合会(以下単に民医連という。)や地元の人達の協力のもとに、刈田陸郎が当時経営していた高砂ホテルの建物を提供し、診療器具等は大阪市住吉民主診療所を発展的に吸収し、新たに院長として松永栄を迎えて病院を創設した。

そして同病院の運営は、医療法人と同様に理事会という機関において行われ、予算、決算、人事等病院運営の重要事項はすべてこの理事会で決定せられていたのであり、松永栄は理事として理事会の構成員であるほか、院長として対外的に病院を代表する権限が認められた。

このように高砂病院は松永栄の個人病院ではなく、その実態は同人を代表者とする所謂権利能力なき社団とみるべきであつて、同病院の理事会においても病院を医療法人にする案が再三検討されていた。

ところで、同病院では従来から理事会内に内紛があり、特に松永栄と刈田陸郎間の対立が解決せず、昭和三七年一二月前記のとおり松永栄の辞任と新病院開設の方針が決定され、その後理事会において高砂病院の廃止、新病院の開設者を被申請人とすること、爾後の病院運営は松永栄を除く旧理事会に被申請人を加えた新しい理事会によつて行うこと等が確認された。

右理事会の決定に基いて、前記のように昭和三八年七月二二日高砂病院が廃止され、翌二三日友愛会病院が発足したが、これは高砂病院が形式上松永栄の個人病院であつたことから、理事会において、被申請人を開設者とする新病院を開設し、高砂病院を廃止するという手続を踏んだのに過ぎず、新病院も高砂病院と同様形式上の名義人である被申請人個人経営の病院ではない。

更に、高砂病院から友愛会病院への引継ぎの過程で、病院では一日も休むことなく継続的に診療が続けられ、従業員の労働条件、病院の建物、診療器具等の設備その他も従前のとおりである。

以上のように、両病院は名称が変り、院長が交替しても企業としては全く同一であり、高砂病院が廃止され友愛会病院が開設されたことは、所謂権利能力がなき社団の代表者が松永栄から被申請人に変更されたに過ぎないとみるべきである。

(四)  従つて、高砂病院の従業員であつた申請人らは当然友愛会病院の従業員たる地位を有するのであるが、被申請人が申請人らの就労を拒否しているのは、申請人らの所属する高砂病院労働組合の組合活動を嫌悪し、申請人らを排除しようとする意思によるもので、労働組合法第七条第一号に該当する不当労働行為であり、又申請人川原、同月岡、同久田、同弓田については同申請人らの思想、信条を理由とする差別的取扱でもあるから、労働基準法第三条にも違反する。

(五)  右の次第であるから、申請人らは被申請人を相手に従業員地位確認の訴を提起すべく準備中であるが、申請人らはいづれも労働の対価としての賃金のみを唯一の生活手段とするものであつて、本案判決の確定を待つていてはその生活を維持することができないので、本件仮処分申請に及んだ。

(六)  高砂病院と申請人ら間の雇傭関係は友愛会病院との間で引続き存在しているのであるから、仮りに被申請人主張のように、松永栄、刈田陸郎ら高砂病院の理事であつたものの間で昭和三九年七月七日に被申請人主張のような合意が成立したとしても、申請人らと友愛会病院との間の雇傭契約にさかのぼつて影響をおよぼすことはあり得ない。

第三、被申請人の答弁並びに主張

(一)  申請人ら主張事実(一)のうち、被申請人が友愛会病院を開設し、現在同病院の院長であること、同病院が申請人主張のような各科を有していること(但し従業員は約三五名である。)、申請人らが高砂病院の従業員であつたこと及び同病院が廃止されたことの各事実は認めるが、その余はこれを争う。

被申請人の友愛会病院は、高砂病院を引継いだものではなく、別個独立のものである。

(二)  申請人ら主張事実(二)のうち、被申請人が高砂病院の退職者中友愛会病院に採用願を提出した者を採用したこと、申請人らに対し友愛会病院への立入りを禁止したこと等は認めるが、高砂病院が廃止せられた経緯は不知、その余は争う。

(三)  被申請人は、高砂病院が使用していた建物を申請外田辺アサから新たに賃借し、同病院の廃止後別個の新たな病院を開設したのであり、友愛会病院と高砂病院との間に申請人主張のような同一性はなく、又被申請人は申請人らを友愛会病院の従業員として雇い入れた事実もないから、被申請人と申請人らとの間には何ら法律関係はない。

高砂病院には理事会という会合があり、病院の運営等について論議していたことはあるが、その構成員である各理事は院長である松永栄に指命されており、理事が病院に出資をしたこともなく、又経営に対する責任も負担せず、従つて利益の分配をうけるということもなかつた。

このような理事会組織の病院は民医連の指導する病院によく見受けられるのであるが、民医連からその理事会に理事を送り、病院を理事会の制約下に置こうとした一種のからくりであつて、正確には理事会は院長の諮問機関に過ぎず、何等法的権限を有せず、院長も又病院の経営について理事会に対し責任を負うということもない。

高砂病院の理事会組織では、各理事があたかも出資をしているかの如き虚偽の文書を作成して関係官庁に提出し、診療報酬に対する課税のうえで医療法人と同様な取扱をうけたり、労働攻勢に対して院長が理事会を楯にとるといつた事例があり、又院長が病院の経済行為について理事の刈田陸郎に協力を求め、同人から担保の提供をうけたり、或いは同人が病院の建物の賃貸人である田辺アサの代理人として病院に対処していたこと等のため、院長が同人の意見を無視して病院の経営を行うことは困難であるという事情があつた。

しかしこれらはいづれも、理事会ないし理事の法律上の権限に基くとか或は権利義務としてなされたというような性質のものではないから、病院の法的形態を左右するものではなく、高砂病院は所謂権利能力なき社団若しくは各理事を組合員とする民法上の組合のいづれでもなく、開設者である松永栄の個人経営の病院であつた。

ところで、友愛会病院も、被申請人が個人として病院の開設を申請し、その許可を得て経営している純然たる個人病院である。ただ被申請人は、右病院の建物を賃借するについて刈田陸郎の協力を得ていること、病院の診療器具、什器等も一応同人から使用を許されていること更に同人や同人の妻から多額の経営資金を借入れていること等のため、右病院経営について色々な制約をうけ、被申請人個人経営の病院であつても経済的には刈田陸郎らの支配下にあり、例えば、病院の収入を被申請人が個人的に使用することはできない状態にある。

しかし友愛会病院には理事会という制度はなく、高砂病院の理事であつた申請外千住雄二は友愛会病院の従業員ではあるが理事ではなく、同様に松永栄も友愛会病院とは何ら関係をもたない。

このように友愛会病院は高砂病院とは別個独立の企業であつて、両病院の間に同一性はない。

(四) 申請人らは、高砂病院が廃止された際、松永栄と新理事会の代表理事としての刈田陸郎との間で債権債務の引継ぎがなされた旨主張する。しかしこれは昭和三八年七月五日に松永栄と刈田陸郎両個人の間になされた契約であつて、高砂病院の資産負債を刈田陸郎が引継ぐことを内容とするものであるが、右契約には公正証書を作成したときに効力を生ずるという約款が附せられていたのであり、その後現在に至るまで公正証書は作成せられておらず、昭和三九年七月七日両当事者間において、右契約の効力が発生していないことを確認し、高砂病院廃止当時における病院の資産を以て同病院の債務を弁済し、事業を清算するとの協力の基本方針を相互に確認している。

このように刈田陸郎は高砂病院の営業は勿論、資産も引継いではいない。

(五) 申請人主張事実(四)、(五)はいづれも争う。

第四、証拠〈省略〉

理由

(一)  被申請人が友愛会病院の開設者で、現在同病院の院長であること、申請人らが高砂病院の従業員であつたことは当事者間に争いがない。

(二)  申請人らは、友愛会病院は高砂病院の業務内容を引継ぎ、高砂病院との同一性を持続しているから、高砂病院の従業員であつた申請人らはいづれも友愛会病院の従業員としての地位を有する旨主張し、被申請人はこれを争うので、以下この点について判断する。

いづれも成立に争いのない乙第二号証、同第一〇号証、同第一八、第一九号証、同第二一号証、同第二二号証の二、同第二四、第二五号証の各一ないし四、証人松永栄の証言により成立を認める甲第六号証の一、同第七号証、文書の形式内容及び弁論の全趣旨により成立を認める甲第一号証、同第六号証の一ないし三、同第七ないし第九号証、同第一三、第一四号証、乙第六号証、同第八号証、同第一二ないし第一七号証(乙第一五号証の官公署作成部分の成立は当事者間に争いがない。)、同第二〇号証、同第二三号証、証人松永栄、同岸井良策の各証言並びに申請人川原啓男本人尋問の結果を綜合すると、高砂病院は、昭和三〇年六月頃申請外松永栄の個人名義で開設されたが、病院の開設については、申請外刈田陸郎が民主的医療機関の連合体である民医連や地元の人々の協力のもとに、同人の妻の母親である申請外田辺アサの所有で当時大阪市住吉区浜中二の一五番地に所在した高砂ホテルの建物を改造して、病院の創設を企画し、診療器具、従業員等は大部分同市住吉区にあつた住吉民主診療所から提供をうけ、刈田陸郎、民医連関係者、住吉民主診療所運営委員らと松永栄との話し合により、松永栄がこれらの設備を以て病院を開設し院長に就任するのを受諾し、新病院の創設に至つたものであること、同病院は民医連加盟の民主的医療機関たることを目的とし、資金面では当初民医連や民医連加盟の病院、松永栄個人その他多方面から運営資金の提供をうけて発足したが、その後順次これらの金員や刈田陸郎が支出した前記建物の改造費等を返済し、住吉民主診療所から提供されていた診療器具等も金銭に換算して返却を了したこと、同病院の対外的な行為はすべて院長名義で行われ、病院が取得した不動産も院長である松永栄の個人名義で登記されていたが、同病院には理事会という機関(当初は松永栄と刈田陸郎夫妻、民医連事務局長の峙某、住吉民主診療所運営委員の本川某ら三名等合計八、九名で組織され、建設委員会と称していたが、病院開設後間もなく運営委員会、のちに理事会と名称を変え、構成員も次第に減少し、後記のように病院廃止の頃は松永栄、刈田陸郎外二名となつていた。)があり、院長の職権も重要事項はすべて右理事会の決定に基いて行なわれていたこと、右理事会の構成員である各理事はいづれも無報酬であり、しかも病院に対する出捐行為のある理事相互の間でも、医療事業であるため利益の分配は勿論、損失の分担当等について明確な取決めはなされておらず、松永栄は院長として病院の給与規定に基く賃金を、又刈田陸郎は前記建物の賃料として定額の金員を得ていたに過ぎないこと、右理事会には病院開設の初めから各理事間に内紛があり、特に院長である松永栄と病院の建物の提供者で同時に右建物を病院債務の担保に提供していた刈田陸郎間の意見の対立が根強く、民医連の調停もうけ関係者の間で種々折衝が続けられたが、昭和三七年一二月二八日当時松永栄、刈田陸郎、申請外小西一清、同千住雄二の四名の理事(千住雄二は病院事務長、小西一清は庶務主任の地位にあつたが、いづれも病院に対し特別な出資ないし出捐はしていない。)で構成されていた理事会において、全員の合意により、松永栄が一切の職務を辞任し、同月末日を基準日として病院の経営を刈田陸郎に引継ぐこと等を決議するに至つたこと、その後昭和三八年一月二九日、同年三月二九日の各理事会においても、右方針に副い同月末日を目標に松永栄名義の高砂病院を廃止し、同病院の医局長の地位にあつた被申請人名義の新病院を開設すること、新開設の運営は松永栄を除く旧理事と被申請人を新たに理事として加えた新理事会によつて行なうこと、新旧両病院開廃の間で実際の診療業務に切れ目がないようにすること、松永栄に対しては慰労金として金二百万円を同人に支給すること等を決議し、これらの決議に基き松永栄は同年四月頃から事実上院長職を離れ、爾後の院長業務は医療面を除き刈田陸郎の手に移管されたこと、新病院開設の手続はその後遅延し、その間に前記小西一清に多額な使い込みのあることが発覚し、そのため病院の運営は経済面で著しい窮状に陥つたが、同年七月四、五日頃刈田陸郎と松永栄との間に、病院の資産負債の引継に関する細目的な契約書を作成し、高砂病院の廃止と新病院開設の間に切れ目のないよう関係の官署に折衝したうえ、同月二二日被申請人名義の病院開設の許可うけ、同時に同日高砂病院を廃止し、翌二三日病院の建物、診療器具等の一切の設備及び従業員の全職員を現職そのままに、診療業務も一日も休まず継続的に引き続き、友愛会病院の名称で新病院の業務を行なつたこと、友愛会病院では予定された理事のうち小西一清が病院の開設以前に退職し、千住雄二も病院の開設後間もなく理事を辞任しており、病院の経営は、刈田陸郎夫妻と被申請人の両者の合意に基き、院長である被申請人名義で行われていること、高砂病院の従業員については、同病院の理事会でも又松永栄と刈田陸郎の間においても、これを新病院に承継することの明示的な取決めはなされていなかつたが、松永栄、刈田陸郎の両名共機会ある毎に従業員に対し、病院の経営が松永栄から刈田陸郎に引継がれることを説明し、従前どおリ一同が協力してやつて貰いたい旨表明していたこと、しかし友愛会病院の発足後同年八月一日、申請人川原を委員長とする従業員労働組合と被申請人、刈田陸郎らとの間で夏季手当金支給の問題、病院の自動車運転手解雇の問題等をめぐつて団体交渉が行なわれたあと、刈田陸郎はその翌日、突然従業員全員を集めた席上で、病院を閉鎖すると言明し、その後転じて申請人川原、同月岡、同久田、同弓田の四名に対し同申請人らは新病院に採用できない旨通告するに至つたこと、被申請人も、同月一〇日前後まで右申請人ら四名を除く爾余の従業員から病院発足当時の後日付で友愛会病院宛の採用願を提出させ、結局これに応じなかつた申請人大西、同松田、同岩川の三名を加えて申請人ら全員を友愛会病院の従業員ではないとし、その頃から申請人らの就労を拒むようになつたことの各事実が疏明せられ、右認定を覆すに足りる疏明はない。

(三)  右認定した事実によれば、高砂病院が単純な個人企業でないことは明らかであるが、病院の対外的な行為はすべて院長の単独名義で行なわれ、病院が取得した資産も同様に院長の個人名義で保存されていることや理事会の構成員中病院に対する出資者とみられる理事であつても通常病院の対外的な行為面には表われていないこと、しかし内部では院長の行なう業務の執行が院長である松永栄、刈田陸郎など病院に対する出資者とみられる特定の少数理事を中心とした理事会の決議に制約せられていたこと等を考え併せると、出資者の人員が少数で団体性も稀薄であるところから、同病院の実態は社団というより一応出資者である各理事の共同経営によるものと考えるのが相当であり、対外的には院長個人の病院であると解するほかはない。

そして同病院の理事会が松永栄の院長辞任と新病院開設の方針を決議した当時、理事会は松永栄、刈田陸郎、小西一清、千住雄二の四名の理事で構成され、そのうち小西一清と千住雄二は理事として病院の経営に参加する権限が与えられていたに止どまり、病院に対する特別な出資はなかつたのであるから、当時の病院の実態としては松永栄、刈田陸郎の両名による共同事業で、事業の内部関係が民法上の組合契約に類するものであつたと考えることができる。

一方友愛会病院も対外的には被申請人の個人病院で、その実態が刈田陸郎と被申請人との共同事業であると考えられるから、同病院の開設を実態的にみると、松永栄が高砂病院の院長を辞任し刈田陸郎との共同事業から脱退した際、刈田陸郎が、病院の企業そのものは解体させることなく、これを被申請人との間の新たな共同事業にそのまま引継いだものと解することができ、そうだとすれば、松永栄と刈田陸郎の共同事業は松永栄の脱退によつて一旦解散しているから、高砂病院と友愛会病院とは対外的な経営者が異なるだけでなく、実態における事業主体も両病院の間に同一性があるとはいい得ない。

しかしこのような場合の企業における従業員の地位については、企業は労働力と資本との有機的な結合体であつて企業が労働関係を切り離せばもはや企業として存続し得ないものであることを考慮すると、新しい事業主体は企業の承継に際して、個々の労働者との間で個別的に労働関係を承継する手続をとることなく、旧経営者との合意だけで全部若しくは特定範囲の労働関係を包括的に承継することが可能であると解せられる。

ところで、前記認定した事実によれば、友愛会病院は高砂病院の業務内容をそのまま承継して開設されたことが明らかであり、松永栄と刈田陸郎間において特に明示的な取決めはなされていないが、両者共従業員の雇傭関係を含めた企業の承継を意図していたことが認められるから、高砂病院と従業員の雇傭関係は、前記事業主体の異動に伴い、松永栄の院長辞任と共に一旦刈田陸郎に承継されたうえ、同人と被申請人の共同事業である友愛会病院発足により更に同人から右友愛会病院に承継され形式的には被申請人が雇傭関係の当事者となつたものと考えることができる。

被申請人や刈田陸郎が、友愛会病院発足後間もなく申請人らに対し、申請人らを友愛会病院に採用していないとの理由で就労を拒むに至つたことは前に認定したとおりであるが、前記企業承継のいづれの過程においても、当事者である経営主体相互の間で、従業員の雇傭関係のうち特定範囲の個別的な労働契約のみを承継しない旨の特別な合意がなされたと認めるべき疏明はないのであるから、申請人らを含め高砂病院の従業員の雇傭関係は、その全部が被申請人経営の友愛会病院に承継されたと解するほかはなく、高砂病院の従業員であつた申請人らは友愛会病院の発足と同時に同病院の従業員たる地位を取得したと認められる。

次に、文書の形式、内容及び弁論の全趣旨によつて成立を認める甲第二七号証によると、前記松永栄、刈田陸郎、小西一清、千住雄二の四名の間で、昭和三九年七月七日、前記昭和三八年七月四、五日頃松永栄と刈田陸郎の間でなされた、経営引継ぎに伴う債権債務の承継に関する細目的な契約が附帯約款によつて効力を生じていないことを確認し、業務を整理したうえ昭和三八年七月二二日病院廃止当時の高砂病院の資産を以て病院債務を弁済して、清算する旨の合意がなされたことが疏明せられるが、前記認定した事実によれば、高砂病院は事業の存続した当時の理事会において、病院の廃止と事業内容を刈田陸郎らに引継ぐことを決議し、松永栄と刈田陸郎ら経営当事者においても合意に基いて同病院を廃止し、その結果企業は友愛会病院に承継されたと認められるのであるから、これにより高砂病院の企業としては存在を失つた筋合であつて、前記昭和三九年七月七日に成立した合意は松永栄と刈田陸郎間のものであるとしても、それは病院廃止当時既に発生していた具体的な債権債務の処理に関する事項等についてのものであるに止どまり、従業員の雇傭関係を含む病院企業自体の承継の効力を左右するものではないというべきである。

(四)  前顕乙第二五号証の一ないし四、いづれも成立に争いのない甲第二号証の一ないし六、乙第一一号証の一ないし四、同号証の七ないし一七、弁論の全趣旨によつて成立を認める甲第五号証の一ないし一七、申請人川原啓男本人尋問の結果を綜合すると、申請人川原は衛生検査技師の職にあつて昭和三八年七月友愛会病院開設の当時高砂病院から一ケ月金二九、八六八円、同じく同月岡は事務員として一ケ月金一八、三六一円、同じく同久田は栄養士として一ケ月金一八、五〇〇円、同じく同弓田は調理師として一ケ月金二六、八一九円、同じく同大西は雑役夫として一ケ月金二一、一三〇円、同じく同松田は事務員として一ケ月金一七、〇六六円、同じく同岩川は看護婦として一ケ月金一七、四一六円の各割合による平均賃金を毎月二五日限りそれぞれ支払われていたこと、被申請人が申請人らに対し昭和三八年八月一〇日付と同月一三日付の各内容証明郵便でそれぞれ病院への立入禁止を通告して以来、申請人らを友愛会病院の従業員として取扱わず、かつ同月以降の賃金の支払を拒んでいることの各事実が疏明せられ、又申請人川原啓男本人尋問の結果によれば、申請人らはいづれも右賃金によつて生活を維持するほかにないことが疏明せられるから、申請人らは本件仮処分を求める必要があるといわなければならない。

(五)  以上のとおり、申請人らの本件仮処分申請はいづれも(申請人岩川の申請の趣旨中金員の支払を求める部分は右疏明せられた賃金の限度で)理由があるから、保証を立てさせないでこれを認容することにし、申請人岩川明子のその余の申請を却下し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条第九二条を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 宮崎福二 荻田健治郎 田中貞和)

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